2011年6月1日水曜日

講演会「松村正恒の思想」を聞いてきた

岡田湯も竣工し東京に行く機会がめっきり減ってしまい、東京出張のついでに展覧会や講演会などに行く機会も減ってしまった。時間と交通費を使ってわざわざ出かけるとなると億劫になったりするのだけど、でもこの講演会は行ってよかった。
『建築家・松村正恒ともうひとつのモダニズム』の花田佳明さんと、青木淳さん(東大で花田さんと同級生だとか)による講演会。『建築家・松村正恒ともうひとつのモダニズム』を読んでいたこともあり、花田さんの話は理解しやすかった。青木さんは、改修後の日土小学校を見学したときに撮った写真をスライドで見せながら、日土小学校の特徴について解説(?)してくれるというもの。これが大変面白かった。青木淳という建築家はこういうところが気になってしょうがないんだ、こういう見方をしてるんだ、ということが新鮮だった。「基本真壁なんだけど、縦横のラインを強調して空間の抽象性を“表現”するようなことをしていない」とか、「金物の使い方など、金物をかっこよく見せようとするわけでもなく、隠そうとするわけでもない」とか、「ジョイント部分は普通は、ジョイントをかっこよく見せるか、ジョイントがないように見せるかどちらかだけど、日土はどちらでもない」とか、「ごく普通に見えるようなディテールで全体ができている」とか、「部品と部品を分けるでもなく、その間があるわけでもなく」などなど。そのようなディテールが、あの空間の雰囲気のようなものをつくっているのではということだった。
帰りの新幹線でもいろいろなことを考えたのだけど、ひとつ、青木さんは自身の作品ではわざと「普通じゃない納まり」をやるんだろうけど、松村の場合はどこまで「わざと」と言えるのか?ということが疑問に思った。「表現しない」ために、やりっぱなしみたいなディテールでよしとするのは、松村がどこまで意図していたことなのだろうか? 日土小学校には、すっきりとしたモダニズム建築らしい納まりもあれば、明らかにへんなところもある。浮いたように見せてる下足入や図書室の棚など、すごくデザインがうまい人なのは間違いないので、「へんな納まり」になってるところが、施工の技術レベルの問題なのか、力を抜いた設計なのか、あえて「へんに」見せようとしたのか、気になるところ。花田さんの結論のひとつにも「建築の意味が確定することを拒否したこと」とあるが、そのために色を使ったり、銀紙を張ったりしたのではないか、ということであったが、意図しないでやってるディテールも結構あるように感じられた。たぶん、いろいろなレベルで混ざってるのだろう。僕の経験上では、一生懸命考えた納まりだけど「これどうやって作るんすかぁ?絶対壊れますよぉ」なんて現場監督に言われて、泣く泣く変更したりすることはあるけど、そういうレベルとは違うと思うし。普通に見えるところでも、かなり気を使って設計しているという場合もあるし。まあ、とにかく、これは一度見に行かないといけないと改めて思いました。8月7日に見学会があるようですが、珍しく予定が入ってるしなー、次の春休みシーズンに見学会があればいいけど。